院長室
家族
家族は母親、私と妻と子ども3人です。そしてラブラドールのエリザです。
私は西条市氷見で生まれました。小学校入学前に西条市飯岡野口に引っ越し、以来飯岡小学校、東中学校、西条高校とずっと西条育ちです。不勉強がたたり大学入試に失敗し、広島で1年間の浪人生活を送りました。徳島大学医学部を卒業し、徳島に残るか愛媛に帰るか悩んでいましたが、1年上の先輩が『俺は徳島に残ったので、お前は愛媛に帰ったら』と言われました。徳島になじめなかったのと、両親の近くで勤務医として働くのが希望だったので、愛媛大学に入局しました。頭の先から足まで全身を診察できる、当時専門性があまり進んでいない小児科を選びました。親父からは『なんで内科じゃないんぞ』と言われました。小児科の中でも専門性もあり、私は初め代謝内分泌のグループに属しましたが、なじめず神経グループに入らせてもらいました。
市立宇和島病院、県立新居浜病院で一般診療と小児神経疾患とを勉強してきました。H4年に新居浜病院に救命救急センターができて、2日または3日に1回のオンコール(実際は私が部長でしたので、毎日オンコール状態)でした。ICUやHCUに呼吸器管理を要する患者さんも少なからず居て、通常の外来業務、病院当直、小児科オンコールと忙しく働きました。私は勤務医が希望でしたので,開業は全く考えておりませんでした。しかし、40歳も半ば近くなると少ししんどくなり、この状態が後20年以上続くかと思うと違う道も模索し始めました。子どもたちも中学生、小学中高学年にさしかかっておりましたので、一念発起故郷の西条市に開業を決意しました。医師会の強い反対がありましたが、なんとか45歳で開業できました。
開業は想像以上にしんどいものでした。『隣の芝生は青い』という通りでした。勤務医時代、『開業医は重症患者は病院に紹介し、軽い楽な患者さんのみ診療し、その上勤務医の何倍もの高給取りでうらやましい限り』だと思っていました。実態は想像以上にハードな仕事でした。当然ですが、私は開業以来15年間無遅刻無欠席です。丈夫な体に生んでくれた両親に感謝です。
妻は大洲の出身で、私が愛媛大学小児科で研修している時に小児病棟で知り合いました。非常にかわいい優しい子だったのですが、今では・・・・ 宇和島病院勤務時代に結婚し、一姫二太郎に恵まれました。
長男は岡山で医師として、長女は神戸で幼稚園の先生として頑張っています。次男は岡山で勉強中です。
エリザは二男が少し?(大分?)荒れていたときに情操教育もかねて飼いました。老犬になりましたが、おとなしくて賢いです。